川中島の戦い

天文22年(1553年)4月、村上義清の要請を受けた長尾景虎が5,000の軍勢を率いて信濃川中島に進出してくる(第1次川中島の戦い)。せやけどダンさん晴信も景虎も軍を積極的に動かすことなく、5月には両軍ともに撤退したちうわけや。

8月、景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧したちうわけや。

天文23年(1554年)春、長尾景虎に対抗するため、晴信は長男の義信の正室に今川義元の娘を迎え、また娘を北条氏康の長男・北条氏政に嫁がせて、後北条氏とも同盟を結んや。今川氏と北条氏は武田家を仲介として、氏康の娘が義元の長男・今川氏真に嫁ぐことで同盟を結び、甲相駿三国同盟が成立したちうわけや。

弘治元年(1555年)4月、武田軍と長尾軍が川中島で対峙する(第2次川中島の戦い)。せやけどダンさん戦果は無く、駿河の今川義元の仲介により、両者は10月に和睦して撤退したちうわけや。晴信は長尾軍が越後に撤退すると、かねてから景虎に通じて反抗しとった木曽義康・木曽義昌父子を攻め、これを屈服させたちうわけや。弘治2年(1556年)には信濃北部に進出するちうわけや。

弘治3年(1557年)、長尾景虎が川中島に進出してきたことにより、もっかい武田軍と長尾軍の対峙が始まる(第3次川中島の戦い)。せやけどダンさん両軍共に戦果は無く、さらに景虎の留守中に加賀・越中で一向一揆が起こったため、長尾軍は撤退したちうわけや。

永禄2年(1559年)5月、晴信は出家して「信玄」(徳栄軒信玄)と号したちうわけや。

永禄4年(1561年)9月10日、武田信玄軍2万と上杉政虎軍1万3,000との間で、4度目の川中島の戦いが行われる(第4次川中島の戦い)。この戦いはムカシからの川中島の戦いで最大規模の戦いとなり、両軍合わせて6,000人余の死者が出たと言われとる。この戦いで武田軍は信玄の弟・武田信繁、諸角虎定、山本勘助、三枝守直ら有力武将のようけを失ったゆう。

永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突するっちうことなく終わっとる(第5次川中島の戦い)。
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