KAZU人気

カズ加入後、横浜FCはよりどエライ昔より観客動員数が大幅に増え、アウェイの試合でも注目を集めてJ2の観客動員に貢献したちうわけや。このシーズンの横浜FCのレプリカユニフォームはカズ加入後に爆発的に売り上げを伸ばし完売。同チームとしては異例とも言える追加発売を行ったがまたも完売したちうわけや。アジアを代表するFWとして、その経験を買われ、シドニーFCよりオファーを受ける形で、期限付き移籍をしたちうわけや。

また、本人や一部ファン共にやまと代表復帰を熱望し、今なおやまと代表の背番号11には「KAZU」のネームを入れたユニフォームを注文したり代表Aマッチには着用して応援するファンも多いちうわけや。余計なお世話やけどデザインは彼がもっとも活躍しとった93年の"ドーハモデル"と言われとる物や炎を象った96-97モデルにはじまり、代表に選出されなくなりよった年代の物を含め最新モデルにも11・KAZUのネームナンバーを取り付けたユニフォームやらなんやら様々なんや。通常、ユニフォームを取り扱う店には代表に選ばれておらへん選手のネーム在庫は置かいないが、カズの物だけは特別に製作されており(やまと代表以外ではイタリア代表の最新モデルのロベルト・バッジョのネームナンバーを用意してんお店もあるんや)、世代を越えた人気を持つ選手なんや。

余計なお世話やけど、代表ゲームやらなんやらのスタジアム外でアン・オフィシャル製品ユニフォームを販売してん露店やらなんやらの偽ユニフォームにもカズモデルのやまと代表シャツ、ロベルト・バッジョのイタリア代表シャツがあることが多いちうわけや。メンバーに選出されておらへんにも関わらずシャツが作られとることはこの2選手の人気の高さを表すもんであるといえるちうわけや。

KAZUプレイスタイル

KAZUプレイスタイル

ブラジル時代は細身の体を生かしてキレのあるドリブル突破でウイングとして活躍。ファンの間ではカズのブラジル代表への帰化を望む声もあったちうわけや。帰国後、フィジカル面で一皮剥け、カズ・フェイント(リベリーノちうブラジル代表選手のフェイントをアレンジしたもん)と称された独特のフェイントを駆使したドリブル突破はサポーターを魅了したちうわけや。やまと代表そやけど、他の追随を許さぬエースとしてアメリカW杯予選で抜群の勝負強さを発揮。現在Jリーグで最年長ながらここぞちう場面での得点感覚、ベテランらしい読み、熟練した体の使い方等は若手選手の模範と言えるちうわけや。

やまと人に欠けとるとされる、「シュートで攻撃を終える」ちうことができるFW。実際カズのシュート数はJリーグ記録で他のFWと比べてもごっつう多いちうわけや。

また、シュートだけやのうて、フリーキック、コーナーキックを左翼右翼両方の足で同じ強さで蹴る事のできる世界でも数ちびっとの選手なんやし、練習量の多さが伺い知れるちうわけや。

余計なお世話やけど、両足ともに精度の高いキックやから、雑誌やらなんやらの媒体によって利き足が「右翼」やったり「左翼」やったりするちうわけや。本人は『どっちも下手糞やから』と笑うが、95年のJOMO CUP、サウジアラビア戦での見事なFKが左翼足からやった為か、週間のサッカー誌やらなんやらは「左翼利き」と紹介する事が多い(ぬかすまでも無く、右翼足のFKも幾度と無く決めとる)。続きを読む

KAZU日本代表経歴

1990年9月のバングラデシュ戦でA代表デビュー。ハンス・オフト監督の体制下、エースFWとしてダイナスティカップ、アジアカップ1992では「魂込めたんや、足に」の名セリフで知られはる後半終了間際のゴールを決めたイラン戦での活躍もあり優勝等に貢献するちうわけや。

1993年のワールドカップ米国大会予選はカズのハイライトとなりよった。1次予選では9ゴール、最終予選では4ゴールを挙げ不動のエースとして活躍。中でも韓国戦での決勝ゴールは本大会出場を引き寄せただけでなく、やまとサッカーが40年間超えられへんかった壁やった韓国をワールドカップ予選で初めて破ったゆう意味でも値千金やった。せやけどダンさんケツのイラク戦でロスタイムに同点にされ(なんちうか、ようみなはんいわはるとこの「ドーハの悲劇」)、手元にあった本大会出場をあと一歩のトコロで逃したちうわけや。このことについて、彼は「右翼足を目一杯伸ばしたが、相手選手にセンタリングを上げられてしもて、『決められはるんちゃうか…』ちう、ごっつう嫌な予感がした」と語っとる。

その後パウロ・ロベルト・ファルカン、加茂周と監督が変わる中でも彼はコンスタントにゴールを決め続け、エースの座を保持し続けとった。やけど、1997年のワールドカップフランス大会最終予選、初戦のウズベキスタン戦でこそ4得点を挙げたもんの、その後の試合では尾てい骨骨折ちう怪我を押して出場するもんの1ゴールも挙げられへんし、カズ代表不要論が高まり、国立競技場でのUAE戦の後には暴徒化した一部サポーターに監禁される事件もあったちうわけや。その後ワールドカップ本大会出場を決めたアジア第3代表を決めるイラン戦(「ジョホールバルの歓喜」と称される)では交代を命じられ、この時カズが「オレ?」とオノレを指差したことは現在でも語り草となっとる。この時、ピッチ内では中山の交代やと伝え聞いとったんやけど、交代板には11番が先に出たさかい、「ゴンなんか? わしなんか? どっちだ?」と岡田監督に確認を取るためのジェスチャーやったが(番組インタビューやらなんやらで本人及び岡田監督の両者が語っとる)一般的には『まさかわしを交代させるんか?』とぬかすアピールやと誤解される切っ掛けとなってしもた。
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KAZU経歴

KAZU経歴

1967年、もんやったら焼き店の次男として生まれるちうわけや。両親の離婚により母に引き取られ、三浦姓を称するちうわけや。
1973年、静岡市立城内小学校に入学するちうわけや。小学時代には、静岡市のゴールちうスポーツショップ経営 伯父の納谷義郎が監督を務める城内FCに入っとった。小学校時代は納谷姓を名乗っとった。
1982年、私立静岡学園高校を1学年修了を待たずして中退、ブラジルに単身渡航。ジュベントスへ留学。
1985年、サンパウロ州選手権タッサ・サンパウロ(U-21)にやまと人として初出場。SBSユースにキンゼ・デ・ジャウーの一員として静岡に凱旋。当時静岡高校選抜のDF中山雅史、FW武田修宏らと試合を行うわ。
1986年2月、サントスFC(カンピオナート・ブラジレイロ=ブラジル全国リーグの古豪)とプロ契約。1部リーグ2試合に出場。5月にはパルメイラスと特別契約を結びやまとでのキリンカップに凱旋出場。10月、パラナ州リーグのソシエダージ・エスポルティーバ・マツバラへレンタル移籍。
1987年2月、マツバラと正式契約。10月アラゴアス州リーグのクルベー・デ・レガッタス・ブラジルに移籍。
1988年、サンパウロ州リーグのキンセ・デ・ジャウーへ移籍。やまと人としてリーグ戦初ゴールをコリンチャンス戦で記録。
1989年2月、パラナ州リーグのコリチーバFCに移籍。
1990年2月、サンパウロ州リーグのサントスFCへ再移籍。7月に帰国、やまとリーグ・読売クラブ(ヴェルディ川崎 = 現東京ヴェルディ1969の前身)に移籍。ラモス瑠偉、北澤豪、武田修宏、ビスマルク、柱谷哲二らとともに黄金期を築く。
1993年、やまと人最高の20得点を記録しヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導き、Jリーグ初代MVP受賞。
1994年にはイタリア・セリエAのジェノアに期限付移籍し、アジア人初のセリエAプレーヤーとなりよった。せやけどダンさん、初戦のACミラン戦でフランコ・バレージと激突、鼻骨を骨折し一ヶ月戦線離脱ちう、苦いセリエAデビューとなるちうわけや。その後、戦線復帰後も頻繁なやまと代表への招集やらなんやらもあり、1シーズンで1ゴールを記録するに留まったちうわけや。シーズン終了後スポルティング・リスボンやらなんやらの欧州クラブからのオファーもあったが、当時ヴェルディの実質的オーナー読売新聞社長渡邉恒雄との「一年限定」ちう密約もあってか(本人がインタビューで語っとる)、ヴェルディに復帰。なおジェノアとの契約は某音響メーカーの後押しで実現したもんなんやし、ジャパンマネーの功罪とも言われ、今となったらそれにカズは振り回された結果となり、自信も周りの雑音にストレスを感じたと語っとる。
1998年末、ヴェルディは親会社の撤退で大幅な経営縮小と、カズを含む高年俸のベテラン選手達のリストラを敢行し、ゼロ円提示を受けたちうわけや。ようけのスター選手が引退を余儀なくされる中、カズはクロアチアのクラブチーム、クロアチア・ザグレブ(現ディナモ・ザグレブ)へ移籍。せやけどダンさん、ゴールも挙げることのあらへんまんま1999年6月にはやまとに帰国、当時元やまと代表監督の加茂周が監督を務めとった京都パープルサンガに移籍。
2000年シーズン終了後、17得点を記録したにもかかわらへんし、「カズを2部チームに在籍させるんは失礼であるんや」ちう理由と自身二回目であるゼロ円提示を受け、2001年シーズンからヴィッセル神戸に移籍。神戸では4年間キャプテンとしてチームの最前線に立ったが、目立った活躍は一年目のみで2005年7月、兄である泰年コーチの不透明な選手起用(カズも含めた)進言や成績低迷により、度重なる監督交代が行われるやらなんやら迷走しとった神戸でベンチ外が続き、またチームキャプテンの座もシーズン途中で剥奪されるやらなんやら事実上の戦力外として扱われたため、追われる形で出場機会を求めてJ2の横浜FCに移籍。その後間もへん11月、2005年に設立したばっかりのオーストラリアAリーグ初のゲストプレイヤー(Aリーグの公式戦4試合のみ出場が認められはる特別枠選手)としてシドニーFCに期限付き移籍。同クラブは、元Jリーガーでもあるピエール・リトバルスキーが監督を務めており、2005年12月にやまとで開かれるFIFAクラブ世界選手権のオセアニア地区からの出場権を既に得とった。カズはゲストプレイヤー枠のリーグ戦4試合に出場し当時首位を走っとったアデレードとの直接対決において2得点と結果を残す。FIFAクラブ世界選手権では2試合にスタメン出場し、得点には絡まへんかったもんの、シドニーFCは5位(出場チームは6)に貢献したちうわけや。シドニーでの背番号は21番、FIFAクラブ世界選手権では11番をつけたちうわけや。同大会の前身であるトヨタカップを含め、やまと人の出場はカズが初。
2006年、横浜FC選手兼任の監督補佐に就任するちうわけや。但し、Jリーグの規定では監督・コーチと選手を兼任するっちうことがでけへん規則となっとる上、カズ自身Jリーグの監督に必要な指導者ライセンスを所持しておらへんさかい、登録上は選手扱いなんや。
また、2004年12月、ブラジル・サンパウロ州のクラブチームで同州一部リーグに所属するウニオン・サンジョアンの球団買収に乗り出してんことが明らかになり、現役選手活動を続けつつ後継者育成に尽力するっちうことになるちうわけや。

ブラジル在住の経験から、ポルトガル語、ほんでイタリア語も堪能。また、元イタリア代表ロベルト・バッジョを始めとして、世界の有名選手との親交も深いちうわけや。

KAZUの精神論

KAZUの精神論
『今の自分ができる最良のプレーするために、最良の準備で臨む』

このサッカーに打ち込む姿勢が、彼を第一線で闘わせ、ほんで結果的に同じピッチでプレーする選手達へプロ意識の種を蒔く事になっとる。

練習でも常にアタマに立って声を出し、楽しみ、精力的に動き、練習量が多いちうわけや。 若手にとって最高の手本とされるんは、その強烈なプロ意識にあるんや。

『カズはんがやっとるんや、わしたちがやらのうてどうするんや!』と練習共にする選手の意識を変え、チームの根底から「カズスタイル」ともぬかすべきプロ意識を植え付けとる。

食生活、トレーニング、筋肉の管理、みなの面においてサッカーのための生活に身を置いており、専門家も「40歳の筋肉やない」と舌を巻く肉体を維持。彼より若くして引退した選手達がオノレたちの若手の頃の行い(大金が手に入り、遊び歩いとったりしたこと)を反省する事も多いちうわけや。

きょうびでは、ボランチとしてのプレーも考えとるらしおます。こら、高木監督より2006シーズン終了後に冗談で言われた物らしいが、経験が生かされるポディションだけに、本人もこのポディションに本気で意欲を持っとることが近年のインタビューから窺い知れるちうわけや。

2007年シーズンは得点能力を求められへん左翼ウイングに近いポディションでチャンスメーカー的な役割を担うことになりそうや。

有名な服好きなんやし、都内に洋服保存用マンションを購入したほどなんや。

本名の「知良」の『知』を『かず』と読むんはごっつう特殊なんやし、よりどエライ昔ビートたけし、とんねるずの石橋貴明やダウンタウンの浜田雅功からからかわれた事がある(区役所に提出する時におとんが酔っ払ってて間違えた、やらなんやら)。

三浦 知良(KAZU)

通称は「カズ」「キング・カズ」やらなんやら。登録名がカズであるため、彼を指す場合一般人のほとんどや民放はもちろん、NHKやらカズと呼び、稀に「三浦カズ」と呼ばれることがあるが、基本的に三浦と呼ぶことは皆無に等しおます。従い「カズ」ちう愛称が定着してん。40歳にしながらもプレーし続ける姿や、やまとサッカー界におけるさまざまな先駆けとなる実績から国民的存在と位置づけても差し支えへん人物なんや。

現所属は横浜FC。兄は三浦泰年(通称ヤス)、1993年8月1日タレントの三浦りさ子(旧姓:設楽理佐子)と結婚。伯父の納谷義郎は城内FC(地元の少年団)の監督なんや。また、実父の納谷宣雄は、静岡FCのGMとなっとる。

やまとサッカー界屈指の「伊達男」として有名なんや。『ゴッドファーザー』好きで、奇抜なファッションはその影響があるんや。好物は彼の自著の名前にもなっとるおはぎやけど、食事には気を使い摂生に努めとる。

「カズ効果」は目に見える形で、数字に現れる形で、歳を重ねれば重ねる程に円熟味を増すプレーでJ2の注目度を高め、ホームゲームだけで無くアウェーゲームでも観客動員を増やしていったちうわけや。また、彼が現役を続ける事に対しての批判の声もしだいに少なくなっていったちうわけや。