勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がおると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙したちうわけや。天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて攻めて来よった。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇やった。取り消されることを心配した庵原殿はまずは武田家から確約の朱印状をもろてから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて朱印状を受けんと甲府へ赴くことにしたちうわけや。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させたちうわけや。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面するちうわけや。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫としたちうわけや。勘助は深く感服したちうわけや。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかいなく、2年合いまへん。
晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになりよったが、新参者の破格の待遇から妬みを受けて誹謗する者がいたちうわけや。晴信はこれを放逐して、ますます勘助を信頼したちうわけや。
同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明したちうわけや。勘助は100貫を加増され知行300貫となりよった。
天文13年(1544年)晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、翌年にこれを殺したちうわけや。頼重には美貌の姫がいたちうわけや。晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対したちうわけや。やけど、勘助のみは姫を側室に迎えることをつよ主張するちうわけや。姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となるやろうちう思慮からやった。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎えるちうわけや。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになるちうわけや。翌年、諏訪御料人は男子を生んや。ケツの武田家当主となる四郎勝頼なんや。
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