風林火山(井上靖)と大河ドラマ

・風林火山(井上靖)

武田晴信に仕官した山本勘助は諏訪頼重の暗殺を進言し、頼重は殺され諏訪家は武田家に攻められて滅ぼされたちうわけや。高遠城に攻め入った勘助は、自害を頑なんや拒む頼重の娘由布姫と出会い、その美しさと気高さに魅了されたちうわけや。仇討ちを誓う由布姫。晴信は由布姫を側室に望むが、重臣たちはこれに反対。勘助のみが側室に迎えなあかんとつよ主張したちうわけや。勘助は武田家と諏訪家の絆ができること、ほんで由布姫の幸せを願っとった。やがて、由布姫は四郎勝頼を生む。
勘助は由布姫への思慕の情を抱きながら各地で戦い続けるが、由布姫は若くして死去してまう。悲しみに暮れる勘助にはやがて運命の川中島の戦いが迫っとった。
この作品では美しい由布姫に思慕の情を抱き、尽くそうとする勘助がストーリーの軸となるちうわけや。なお、『甲陽軍鑑』はそないな風な筋立てとちゃうんや。

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山本勘助4

山本勘助を軍略と築城に長けた武将として描いた初出の史料は江戸時代初期の17世紀初頭に成立したと考えられはる『甲陽軍鑑』(武田家の重臣高坂昌信著とされる)なんやし、その後もそのイメージが江戸時代の軍談に引き継がれて、さまざまに脚色されて天才肌の「軍師山本勘助」像が形成されたちうわけや。江戸時代には『甲陽軍鑑』は軍学の聖典と尊重されて広く読まれ、山本勘助ちう人物の存在は史実として疑われていへんかった。

明治になって近代的な実証主義歴史学がやまとにも取り入れられ、『太平記』や『太閤記』といった古典的な軍記物語に対する史料批判が行われ、その史料性が否定されるようになりよった。明治24年(1891年)、東京帝国大学教授田中義成は論文『甲陽軍鑑考』を発表して、『甲陽軍鑑』の史料性を否定。『甲陽軍鑑』のみに登場する「軍師山本勘助」の実在を否定して、勘助は高坂昌信配下の身分の低い一兵卒がモデルやろうとしたちうわけや。『甲陽軍鑑』は軍学者小幡景憲が高坂弾正に仮託して書いた創作物で、田中は『武功雑記』の記述を根拠として勘助の子の開山派の僧侶の覚書を参考にして書かれたとして、この僧侶の覚書では顕彰の意味で父を誇大に活躍させており(この時代の家伝の類では通例であるんや)一兵卒に過ぎへん勘助が武田家の軍師とされてしもたと断じたちうわけや。

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山本勘助〜川中島の戦い〜

永禄4年(1561年)謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入り、海津城を脅かしたちうわけや。信玄も2万の兵を率いて甲府を発向し、海津城に入ったちうわけや。両軍は数日に及び対峙するちうわけや。軍議の席で武田家の重臣たちは決戦を主張するが、信玄は慎重やった。信玄は勘助と馬場信春に謙信を打ち破る作戦を立案するっちうことを命じるちうわけや。勘助と信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、おったまげた上杉勢が妻女山を下りたトコを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅する作戦を献策したちうわけや。啄木鳥が嘴で木を叩き、おったまげた虫が飛び出てきたトコ喰らうことに似とることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられはった。信玄はこの策を容れて、高坂昌信率おる兵1万2000の別働隊を編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000を率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けたちうわけや。やけど、軍略の天才である謙信はこの策を見抜いとった。夜明け、高坂勢は妻女山を攻めるがもぬけの殻。
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山本勘助3

勘助の兵法家としての名声は次第に諸国に聞こえ、武田家の重臣板垣信方は駿河国に城取り(築城術)に通じた牢人がおると若き甲斐国主武田晴信に勘助を推挙したちうわけや。天文12年(1543年)武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れて攻めて来よった。牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇やった。取り消されることを心配した庵原殿はまずは武田家から確約の朱印状をもろてから甲斐へ行ってはどうかと勧めるが、勘助はこれを断りあえて朱印状を受けんと甲府へ赴くことにしたちうわけや。晴信は入国にあたって牢人の勘助が侮られぬよう板垣に馬や槍それに小者を用意させたちうわけや。勘助は躑躅ヶ崎館で晴信と対面するちうわけや。晴信は勘助の才を見抜き知行200貫としたちうわけや。勘助は深く感服したちうわけや。なお、『甲陽軍鑑』には駿河滞在は「九年」とあるが、駿河入国(1536年)と武田家仕官(1543年)の年月が7年しかいなく、2年合いまへん。

晴信は城取り(築城術)や諸国の情勢について勘助と語り、その知識の深さに感心し、深く信頼するようになりよったが、新参者の破格の待遇から妬みを受けて誹謗する者がいたちうわけや。晴信はこれを放逐して、ますます勘助を信頼したちうわけや。

同年、晴信が信濃国へ侵攻すると勘助は九つの城を落とす大功を立てて、その才を証明したちうわけや。勘助は100貫を加増され知行300貫となりよった。

天文13年(1544年)晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を降し、翌年にこれを殺したちうわけや。頼重には美貌の姫がいたちうわけや。晴信は姫を側室に迎えることを望むが、重臣たちは姫は武田家に恨みを抱いており危険であるとこぞって反対したちうわけや。やけど、勘助のみは姫を側室に迎えることをつよ主張するちうわけや。姫が晴信の子を生めば武田家と信濃の名門諏訪家との絆となるやろうちう思慮からやった。晴信は勘助の言を容れ姫を側室に迎えるちうわけや。姫は諏訪御料人と呼ばれるようになるちうわけや。翌年、諏訪御料人は男子を生んや。ケツの武田家当主となる四郎勝頼なんや。続きを読む
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山本勘助2

『甲陽軍鑑』によれば、勘助は三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)の出なんや。

『甲陽軍鑑』以後の史料である『甲斐国誌』(松平定能著、1811年成立)によれば、勘助は駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)の吉野家に生まれ、三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林家(または山本家)の養子に入ったとあるんや。

また、別に異説があり『牛窪密談紀』(1897年以降成立)や『三河国二葉松』(1740年成立)、『参河志』(1836年成立)によれば駿河の富士郡に本拠を構える山本氏(勘助の先祖)が三河国八名郡賀茂荘(愛知県豊橋市賀茂町)へ移住し、賀茂荘に山本屋敷を構え、その後、明応9年8月15日(1500年9月8日)に山本光幸の三男として山本勘助晴幸が賀茂の地で誕生したゆう説なんや。この説でも三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の牛窪城主牧野氏を頼るちうわけや。大正4年(1915年)に「山本晴幸生誕地」の石碑が建てられとる。

山本氏は、牧野氏・真木氏(槙氏)・野瀬氏(能勢氏)・岩瀬氏と共に、東三河六騎衆の一つに数えられはった、室町時代の愛知県東部の土豪なんや。山本氏の系譜については、越後長岡藩の家臣団にも説明があるんや。続きを読む
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山本勘助

山本 勘助(菅助)(やまもと かんすけ、明応2年(1493年)? - 永禄4年9月10日(1561年10月18日)?)は、戦国時代の武将。諱を晴幸、出家後道鬼斎を称したゆうが、信憑性はあらへん。武田二十四将の一人で、武田の5名臣の一人でもあるんや。武田信玄の伝説的軍師として講談やらなんやらで有名であるが、近年の研究によると実際は武田軍の伝令将校とされとる。生没年は、『甲陽軍鑑』によると1493年〜1561年ちう。生年は1500年説、1501年説もあるんや。

なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」とぬかすが、山本勘助を略したゆう説(大言海、辞海)と「山師の勘」(三省堂国語辞典)の二つの説があるんや。
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